15年前の震災体験が私を変えた


2010年1月17日の今日。
6434人が亡くなられた阪神・淡路大震災の発生から15年となる。

1995年6月 月刊『神戸っ子』掲載記事

2年前、こんな日記を書いた。

■我が家が被災してから13年
http://mrynasu.info/?p=541

この日記を書いた時に「いつか気持ちの整理ができたら被災体験についても書こう」と思っていた。
15年経ったからといっても、今もまだ思い出しただけで胸が痛くなる。
でも、体験したことを書き残していくことも大切じゃないかな…と、記憶を辿ってみることにした。

—–

小さな地震。
被災するまでは、そんなに恐怖を感じなかったけど、今では少しの揺れを感じただけで鳥肌が立つ。
あの日の記憶が今でも蘇ってくる。

15年前の1月17日、なぜか不安な気持ちがして眠りが浅かった。
そのせいか、あの瞬間、小さな揺れにすぐ気がつき頭から布団を被った。
すぐ収まるだろうと思った時、いきなり頭を振り回され、その後、数秒間の記憶はない。
気がつくと、身動きができない状態になっていた。
ベットに寝ていた私の周りは、大きなタンスが倒れ掛かっていてテントのようになっている。
おそらく、ベットに寝ていなければ、重いタンスの下敷きになっていただろう。。。
真っ暗で、部屋がどんな状態になっているのか全く分からなかった。

部屋の扉の向こうから、両親の呼ぶ声が聞こえてきた。
「ちえこ!ちえこは無事か!!!」
なんとかその声を頼りに、倒れたタンスの隙間を抜け出て部屋の扉の近くまで移動する。
しかし、家が傾いているせいでドアが開かない。
「お父さん!お母さん!助けて!ドアが開かない!!」
父と母が、力を振り絞ってドアをこじ開ける。
僅かな隙間から、両親の顔が見えた。
ドアの隙間から差し出された両親の手を握り締め、少し気持ちが落ち着いた。
それから家族3人でドアを押し開け、なんとか脱出する。
その頃、少し外が明るくなってきた。
両親の足元を見て驚いた。
ガラスの破片だらけの階段を裸足で駆け上がり助けに来てくれたのだ。
母の頭からは血が流れていた。
その2人の姿を見て、何よりも先に私の所に来てくれたんだと分かった。

それから外に出てゾッとした。
周りの家はほとんど瓦礫と化していた。
地面も割れ、電柱はなぎ倒されていた。

30年間、両親が営んできたクリーニング店は、全壊で2階部分が1階となってしまっていた。

地震の日からの数日間、夜は店の配達で使っていたライトバンの中で3人凍えながら眠った。
でも、家族全員が無事だったこと…それが一番。。。

その後、私たち家族は、近所の人や私の職場の同僚の支えもあり、
なんとか自宅を住める状態に修理し生活を取り戻した。
店の方は両親の努力で、お客様から預かっていた洗濯物をほとんど瓦礫から取り出した。
そして父の商売仲間が最低限必要な機材を準備してくれ、
自宅のガレージに仮設店舗(電柱には手作り看板)を作り、
洗濯してお客様の手元にお返しすることができた。

父と母の腕を信頼してくださり、常連のお客さんが仮設店舗に来てくれるようにもなった。

しばらく、そんな生活が続いたが、仮設店舗での商売も精神的にも肉体的にも辛かったと思う。
父が配達中に目眩を起こし、もうこれ以上無理をしないで欲しいということで店を閉めることになった。

私たち家族は第2の人生を送るため、思い出のたくさんある生まれ育った土地を離れて今の住居に移り住んだ。

私が両親ととても仲が良いのはなぜか?
それはやっぱり阪神大震災の時に両親の私に対する愛情の深さを知ったからかな?
今でも、地震直後にドアの隙間から見えた両親の顔と差し出された手のぬくもりは忘れられない。

父と母をいつまでも大切にしたいと心から思った。
いつまでも、あの日のことを忘れないようにしよう。
前向きで、悔いのない人生を送りたい。

この経験があったからこそ、今の私があると思う。


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